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山と生きる、山に学ぶ

山と生きる、山に学ぶ

七月の頭に二回、大雪山系の山を巡った。七日は黒岳に上がって、お鉢までのピストン。九日は銀泉台から赤岳、小泉岳、白雲岳、北海岳とつないで、黒岳へ縦走。15km超のなかなかの距離を朝から夕方まで、ずっと歩いていた。

休みの日に重い荷物を背負って、汗をかいて、ボロボロに疲れて帰ってくる。傍から見れば完全に道楽かもしれない。自分自身でもその辺は微妙な感覚だった。

でもここ何年か山に登ることが習慣化して以来、山でやっていることと、仕事でやっていることがおそろしく似ていることに気がついた。

黒岳の登りにあらわれる雪渓。トレースが一本、上へ伸びている

動物的に強くなりたい

まずは、身も蓋もない個人的な動機から。

単純に動物的に強くなりたい。

体を動かすこと自体は、ふだんからやっている。それでも、日常の運動でたどり着ける場所には限りがある。何時間も歩きつづけて、ひたすら登り、ひたすら下り、風と気温と自然の音、そして自分の呼吸だけで一日が構成されるような領域には、山に入らないと届かない。

もうひとつ、なかなかできそうにないことをできるようになりたい。この「無理だと思っていたことが無理じゃなくなる」瞬間にものすごい栄養を与えられている。

普段の山行は、たいていは単独で入る。数時間かけて、ひとりで登って、ひとりで降りてくる。すれ違う他の人達と挨拶を交わす以外は誰とも喋らない時間がずっと続いて、聞こえてくるのは自分の呼吸と、靴が砂利を噛む音、そして時折聞こえる鳥の声。そういう時間が尊い。たまに仲間と行くときは、思いきって長距離の縦走にも挑戦する。

稜線の足もとで咲いていた白い花

あのかっこいい山のてっぺんに行きたい

もっと単純な理由もある。かっこいい形の山を見ると、あのてっぺんに立ちたくなる。

遠くから眺めているときの山は、ただの絵だ。それがだんだん近づいてきて、やがて自分の足の下にくる。この感じがたまらない。

歩いていると、いろんなものに出会う。雪渓のわきで固まって咲いている白い花。岩のあいだから顔を出す、名前も知らない薄紫の小さいやつ。稜線の向こうから、ふっと風で霧が持っていかれて、雪渓がゼブラになった斜面がぱっと現れる瞬間。

白雲岳のあたりで、霧が切れてゼブラ模様の雪渓が見えた

岩のすきまで咲いていた薄紫の花

そういうものは、写真で見ても半分も伝わらない。これだけは自分の写真のセンスのなさだけではなく、ただそれだけでは再現できない瞬間がそこにはある。そして、自分の足で数時間かけてそこまで行った人にしか渡されないものが、山にはある。

山に入る前の何日か

ここからが本題になる。

山に登るのは、その何日か前から始まる。

まず調べる。どのルートで入るか。標高差はどれくらいか。難易度はどうか。どこに水場があるか、どこで休めるか、山小屋やトイレはどこにあるか。雪渓がまだ残っている時期なら、そこを越える装備がいるかどうか。

次に計画を立てる。何時に登山口に立つか。どこで何を食べるか。行動食をどれだけ持って、水をどれだけ担ぐか。水は重い。持ちすぎればその重さで自分が潰れるし、足りなければ後半で動けなくなる。この「多すぎず、足りなさすぎず」を、事前に決めておかないといけない。

そして体を整える。といっても特別なことはなくて、寝る、食べる。この二つに尽きる。何時間も歩ける体は、当日の気合いだけではつくれない。前の週からの睡眠と、積み重ねる食事でできている。

縦走の朝、銀泉台からの登りは霧の中の雪渓だった

赤岳の頂上。霧で何も見えなかった

ペースを決める

山でいちばん身にしみたのは、ペースの話。

出だしに焦ってペースをミスると、必ずバテる。

だから登り出しは、いかにマイペースを保つかにだけ集中する。前にも後ろにも人は歩いているけれど、その速さはぼくの歩き方と何の関係もない。意識しているのは自分の呼吸だけ。

息が上がるのは最初の二十分から三十分くらい。体が登りの態勢に切り替わるまでの、いちばん苦しくていちばん判断を誤りやすい時間帯。ここでペースをミスると、数時間後に必ずツケを払わされる。

ペースを上げるより、同じペースを続けるほうが、ずっと大事だ。息が上がらない速度を守って、休むと決めた場所で休んで、決めた量だけ食べて飲む。それだけで、遠かったピークがいつのまにか目の前にある。

北海岳、二一四九メートル。朝に霧の中から歩き出して、ここまで来た

ゴールは遠い。でも、確実に近づける。この二つは矛盾しない。むしろ、遠いということがちゃんと見えていて、なおかつ今日の一歩がその方向を向いていると確信できるとき、人はいちばん粘れるんだと思う。

まだ先は長い。でも、道は続いている

事業でもまったく同じことをやっている。半年先や三年先のピークは、たいてい霧の向こうにあって見えない。見えないからといって走り出すと、チームが壊れる。自分も壊れる。

降りてから

山から降りると、ぼくは必ず振り返る。

水は余ったか、足りなかったか。行動食は多すぎたか。あの登りで足が重くなったのは、前の日の寝不足のせいか、それとも最初の二十分を飛ばしすぎたせいか。次はどこを変えるか。

とはいえ、ぴったり使い切るのが正解でもない。余った水や食べずに持ち帰った行動食は、そのぶんの重さを背負って歩いたということだけれど、同時に「まだ余裕がある」という感覚をずっと背中に置いておけたということでもある。心の余裕は、荷物の重さと引き換えに買える。このバランスをどこに置くかを、毎回考えながら整えている。

備えて、歩いて、振り返って、また備える。この輪を何回もまわしていると、無理だと思っていた山がいつのまにか歩けるようになっている。

黒岳頂上、一九八四メートル。長い一日の、最後のピーク

事業も、たぶんこれがぜんぶ。ただ、事業において余裕持って進んでるつもりでも余裕なんてあった試しがないけど。いろいろ調べて考えて、あれこれ計画して、当日どんなペースで進んで、終わったあとに何を持ち帰るか。派手な一手はどこにもない。

だからぼくは、山に登るのをただの道楽だけだとは思わなくなった。かといって「これは自己研鑽です」みたいな顔をするのも違う気がしていて、結局のところ、あの山のてっぺんに立ちたいだけなのだ。それが仕事の役に立ってしまっているのは、たまたまのめぐり合わせと気付きだと思っている。

次はどこに行こうか。それはそのときの気分と体調に合わせて選ぶ。流石に事業だとコレはまずいけど、山に関して言えば、それくらいの決め方がちょうどいい。

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